何故『やがて君になる』は「好き、以外の言葉で」話す必要があったのか
この記事は2019年ごろ韓国の大衆文学批評サイトTextreetで「小糸優は無性愛者ではないか」論争が起きた中、筆者がそれを反駁するために書いたものを、独立的に読めるように書き直したものである。
追記
以前までは、ツイートの方ではどのような脈絡で論争が行われて、
私がどのような主張に対する反論を書いたのか説明していて、
別にここにまでコメントするつもりはありませんでした。
しかし、イーロン・マスクの圧制に耐えずアカウントを削除し、
もはや観覧不可となった今の状態では、その話をこの場で明確にした方が良いと思います。
Textreetで行われた論争は、最初に「Keyアン」さんという方によって
「性愛(エロス)」を扱う「レズもの」、「純愛(プラトニック)」を扱う「百合」、
そしてそのどれにも還元出来ない「好き」を描いた『やがて君になる』という構図を提示し、
「小糸侑は無性愛者として読解出来る」と主張をしていました。
彼と私は知り合いな上で言いますが、この構図はあまりに雑であり当然のように叩かれました。
ただ、それは百合史や百合ジャンルのファン層、つまり『やがて君になる』というテクストではなく、
百合というジャンル論の問題に流れました。その上、反論の立場に立った人の中では、彼が「無性愛者」という立場を「利用」して詭弁を論じているだけであり、
「小糸侑は無性愛者ではない」と断定していた方もいました。
私としては、(その時点で連載が続いていたことを考慮しても)『やがて君になる』という作品
そのものへの分析なしで論争が流れることに違和感を感じて、『やがて君になる』は
「レズビアン教養小説(ビルディング・ロマンス)として見るべきだ」という趣旨でその反駁文を書きました。それを色んな論文などを参考にして、書き直した記事がこちらになった訳です。
(2023/05/21)
なぜ「好き、以外の言葉」なのか。
『やがて君になる』アニメ版の13話で挿入された曲「好き、以外の言葉で」の歌詞は次のように終わる。
君に言いたいこと/いつも心にメモしておくけど
声を聴いたらもう/全部忘れてしまって
秘密の会話も/ありきりな言葉で埋まってしまって
どうしよう/何を言おう好き、以外の言葉で
この歌詞は表面的に読解すると、いわゆる「友達以上恋人未満」の二人が告白が出来ないままもじょもじょしているような内容であろう。また、『やがて君になる』の内容を熟知している読者であれば、主人公「小糸優」が先輩の「七海燈子」に告白をしてしまうと「相手が自分を好きになったら、自分は好きにはいられない」という「七海燈子」からの条件がやぶられるジレンマとその感情表現だとも読めるだろう。
だが、私はここで文字通りに「好き、以外の言葉」が彼女たちには必要だった、つまりこの歌詞がそのまま『やがて君になる』を読む鍵になると主張したい。
「好き」という言葉の何処が問題だろうか。それは『やがて君になる』が「恋愛ロマンス」そのものに関して疑問を投げている作品だからである。
『やがて君になる』の1話はまさに次のような疑問から始まる。
少女漫画や/ラブソングの/ことばは
キラキラしてて/眩しくて
意味なら/辞書を引かなくても/分かるけど
わたしのものに/なっては/くれない
主人公「小糸優」は誰かを「好き」になったことがない。つまりは「恋」をしたことがなかった。誰かに一気に惚れたこともなく、誰かに告白をされても心が動かない。だからこそ「相手が自分を好きになったら、自分は好きにはいられない」という「七海燈子」の奇妙な条件が掛かって関係に乗った訳だ。少なくとも、『やがて君になる』の序盤で彼女はそう考えていた。
上の段落で、私は「好き」という言葉を「恋」にすり替えた。だが、これは読者を欺瞞するために用意したものではない。寧ろ、いま我々に起こっていることがそうである。「小糸優」の独白の中で「少女漫画やラブソングのことば」というのが何を示しているのか、考えてみると良い。「好き」や「大好き」という言葉は、そこでは「恋」の言葉として表れる。そういった言葉が、「小糸優」にとっては自分は経験することのない領域のものであった、という話であろう。
この感覚は『やがて君になる』だけの独特なものではない。例えば、幾原邦彦監督は『ユリ熊嵐』を作ることに当たって次のような発言をしている。
〈幾原 例えば、「愛」について描きたいと思ったとする。今、男女のキャラクターで恋愛を描くのは難しいと思う。「愛」ということ自体が、男女の関係で描こうとした途端に、もう「ネタ」じゃないですか。(中略)でも、百合というジャンルに飛び込んで、メタファーとしていろんなものを表現すれば、愛は非常に描きやすい。現代で愛を描くには百合というジャンルはとても良いな、と思ったんです〉
この記事で今まで使っていた用語で書き直すと、つまり「好き」について話そうとしても「ネタ」的な「恋」に落ちてしまう、表現しようとしたものとは離れてしまうことである。また、幾原監督は「男女のキャラクターで恋愛」をするとそうであり、「百合というジャンル」ではそうにはいかないと考えている。
言い換えると、「好き」という言葉もつ領域は既に「恋」、もっと固くいうと「恋愛ロマンス」によって占領されていると言える。「好き」と言う瞬間に、「秘密の会話」が「ありきたりな言葉で埋まってしま」い、「男女のキャラクターで恋愛」をするような「ネタ」に落ちてしまう。だからこそ「小糸優」は今までに「恋」に当たる感情を感じたことがないのであり、「小糸優」と「七海燈子」との関係は「好き、以外の言葉で」語れる必要があった。
となると、この記事の目標は二つになる。一つ目は「恋」や「恋愛ロマンス」と呼んだものが具体的にどのようなものなのかを探ること。二つ目は『やがて君になる』で「好き、以外の言葉」がどう具現したのかについて論じること。
ではまず、「恋」や「恋愛ロマンス」のメカニズムについて説明してみよう。
「恋」という規範
我々が「恋」と呼ぶものは、実はそんなに長い歴史を持っているものではない。勿論、男女が愛し合うことや結婚して家庭を成すこと自体は大昔からあったことであろう。だが、今の形、いわゆる「自由恋愛」が始まったのは「近代」という時代からだ。その前まで結婚というのは家門同志の交換に近く、必ずロマンチックな経験を伴うものではなかった。お見合い結婚や政略結婚などを思い浮かぶと分かり易い。なのに、何故、私たちがそれが「ネタ」になるぐらいに自然に考えてしまったのだろうか。
それについては、上野千鶴子の著作『女ぎらい :ニッポンのミソジニー』が有用な説明を提示する。『女ぎらい』という本は色んな問題を扱っているが、我々が注目したい箇所は「性愛の脱自然化」問題である。この本で上野千鶴子はミシェル・フーコーの説明を辿りながら、「性愛」と「家父長制」が強く結び始めたのは19世紀ブルジョア的な脈絡によるものだと説明している。ここでは、荒っぽいではあるが、出来る限り理解し易いようにまとめてみる。また、ここで上野千鶴子が「性愛」や「エロス」というものは、我々が「恋」や「恋愛ロマン」というものと交換できるものとして読んで欲しい。
『女ぎらい』によると、「性は攻撃的なものである」とか「性は親密の表現である」という風な言葉は時代による規範的なものに過ぎない。つまり、「性」は元々どのような性質を持っているものではなく(=自然にそのようなものではなく)、時代によって「こうであるべきだ」と考えられたものである。我々が「男女のキャラクターで恋愛」をするような「ネタ」に思考が走ってしまうのは、「異性愛で結ばれたカップルが夫婦となり、セックスをして子供を持つ」というブルジョア階級的な生活が「正当性を持っている」とされる「規範」の中で生きているからである。
私たちはどうしてそんな「規範」を「自然」だと思うのか。それについて上野千鶴子はこう説明する。中世に存在していた宗教(神様)という大きな規範が失われ、自然の法則を客観的に究明する「科学」がその場を埋まっていたのが、ちょうど19世紀という時間だったからだと。このような近代的な思考が性愛にも適用され、規範であるはずブルジョア的な生活がそのまま自然の法則に当たるものとされた。私から添言すると、いまの科学では同性愛は特別に人間から発見されることでもなく、また病理的なものでもないが、当時には「性愛」そのものが「科学」の範疇で分析され正当性が与えられた訳だ。
また、そういったブルジョア階級の核家族という形が正当性を持つことによって、「性愛」は社会的な領域から分離され家庭の中に閉じ込められた。そういった私的化は性を特権化し、<どのような性行為をするのか>がその人の人格を表す指標となった。
最後の私的化問題については、『やがて君になる』の「佐伯沙弥香」のエピソードを通じてもっと具体的な説明してみよう。
「佐伯沙弥香」というキャラクターは主人公たちの中で一番早くレズビアンというアイデンティティーを自覚した人物である。彼女は「七海燈子」と同級生であり好意を持っているが、「七海燈子」が「自分が好きでいられる人」とは距離を置くことを知っており、感情を抑えているように描写されている。
彼女は中学時代に女性の先輩のキャラクター(以下、「先輩キャラ」)と付き合ったことがあるが、その「先輩キャラ」はそういった関係から「卒業」をして彼女から離れる。再会した時に彼女は「佐伯沙弥香」との関係を「一時期の迷い」と表現し、もし女の子を好きになったら「自分のせい」であり「普通の子」に戻って欲しいと言う。
ここで行われる会話はどれだけ「恋」という規範が強いのか、またそれが人を規定するのかを表している。「先輩キャラ」の言説は、女が女を好きであることや女が女と性的な行為をすると、「普通の子」の条件から脱落させるという意味を含んでいる。
ここで一つ指摘すべきことがある。「先輩キャラ」にとっては「恋」の真似に過ぎなかったとしても、彼女自身が「佐伯沙弥香」との関係に関わったことは変わらない。勿論、彼女は自分を「普通」である、規範の内側の存在であることを強く意識して、その経験を一時的なものとして安全に納めようとしている。だが、そこにこそ亀裂が見えざるを得ない。
彼女の論理を辿ってみると、「一時期」は正常ではなかったと認めることが分かる。また、自分だけではなく「佐伯沙弥香」も、そういった正常側に戻ることが出来ると彼女は言っている。つまり、人は「正常」と「異常」の間を行ったり来たりすることが出来る。したがって、同性愛が「真似」が出来て「学習」出来るように、異性愛も同じプロセスで得られるものである。(性的指向に関する我々の現実で行われる科学的説明に反することとはまた別に)このような論法は異性愛が自然的なものだという特権的な地位を揺るがすものである。
この亀裂を埋めてしまう、見えざる前提とは何か。それは性愛が家庭=私的な関係の中にだけ閉じ込められるべきものであり、公的に論じられるべきものではないという、性愛の私的化である。「佐伯沙弥香」という人格は「どのような性行為をするか」によって「普通」かそうでないか判断される。何故ならばそれ(性的指向)が個人の領域にあるからであり、したがって個人の責任に関わるからであり、個人のアイデンティティそのものを表すものだからである。「先輩キャラ」が「佐伯沙弥香」の性的指向が「自分のせい」だと言えるのも、その「私的な関係」だけが性的指向を形成するからである。
『やがて君になる』の興味深いところは、「恋」や「恋愛ロマンス」のメカニズムが持つ見えざる前提を告発することに留まらず、「恋」によって独占された「好き」では表現できない関係を探求し提示しようとした所である。次の節では、そういった「好き、以外の言葉」がどう具現したのかについては、次の項目から論じることにする。
循環による「恋」からの解放
「七海燈子」を中心にすると、「小糸優」と「佐伯沙弥香」が物語の重要な軸になるが、それを論じる前にもう一人のキャラクターを分析する必要がある。それが「槙聖司」という人物だ。
「槙聖司」は「小糸優」と同じく生徒会に入った男性の新入生であり、「小糸優」と「七海燈子」の関係を目撃したことで物語に積極的に参加することになる。我々の現実世界はいまだに「恋」という規範が強く作用し、規範を外れたものに(それが不当なものだとしても)処罰が待っていることを知っている。したがって『やがて君になる』をまだ読んでいない読者であれば、「槙聖司」が目撃したことをネタにして彼女たちを脅するような展開を想像することも可能であろう。だが、『やがて君になる』はそのような展開には進まない。
「小糸優」と「槙聖司」は自分からは「恋」という感情を持ったことないという点において共通する人物として表れる。例えば、「小糸優」と同様、「槙聖司」は自分に対する異性の告白を拒否している。だが、彼が「恋」に興味がない訳ではない。「小糸優」に「恋」を経験したいという動機があるとすれば、「槙聖司」は徹底的に「恋話」の観客としていようとする。
これについて具体的に扱っている研究が松浦優の「アセクシュアル/アロマンティックの多重見当認=複数的指向:中谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」である。この論文で松浦の狙いは無性愛と呼ばれる「アセクシュアリティ」を単に「セクシュアリティ」=「性愛規範」の反対側に置くことで、多様な性的指向や関係の在り方が失われることを避けることである。また、それが様々な非 — セクシュアルなものとしてスペクトラムの上で表現される可能性を『やがて君になる』から見出すことを目指している。
簡略に紹介すると、松浦優は『やがて君になる』でメインキャラクターたちの成長によって異性愛規範、我々の用語でいえば「恋」の規範からの拒絶を描きつづ、「槙聖司」というキャラクターを登場させることで性的規範そのものを相対化している。ここで松浦優は「槙聖司」を「観客」と位置づけて、「恋愛をしたいという欲望」=「する」とは分離された「恋愛に対する欲望」=「見る」を表すだけではなく、その観客として舞台の上の役者とのダイナミズムが存在していると説明する。
「槙聖司」は『やがて君になる』という物語の中で排除されていたり、彼女たちとは別次元の存在で安全な場所で観望するように描かれている訳ではない。彼自身が異性愛者からの同質性を求められたり、それこそ「恋愛をしたいという欲望」を持っている「小糸優」から同質性を求められたりする。だが、彼は観客としての自分の位置を知っており、そういった「役者」からの要求を拒絶する。
この記事で使って来た我々の言葉に移すと、松浦優の論議が「恋」の規範を相対化することで「好き、以外の言葉で」性愛の在り方を描いた作品として『やがて君になる』を評価している、ということだろう。だが、私が興味を持っているのは、観客の「槙聖司」がそうすることによって役者である「小糸優」が動かす所だ。つまり、彼がそうした要求を断ることで、彼と「小糸優」の関係が明確にされるだけではなく、「小糸優」と「七海燈子」の関係を進展することにも貢献している。このことは一体何を意味しているのだろう。
ここでもう一つ、『やがて君になる』を研究した論文がある。それは川崎瑞穂の「百合と紫陽花 — アニメ『やがて君になる』第8話の範例分析 — 」である。川崎瑞穂の視点は構造主義に基づき、紫陽花の意味(=シニフィエ)を明かすことではなくどのように交換されているのかについて考察している。この研究の中心になっているのは「何色の紫陽花が好きか」というセリフだが、この論文では紫陽花の花言葉や主人公たちが好きな色について分析している訳ではない。寧ろ、誰に誰がその質問を投げられたか、どの状況でそうしたか、どのように何と交換されているのかである。
この質問は「七海燈子」から「佐伯沙弥香」に最初に投げられ、次には「佐伯沙弥香」から「小糸優」に投げられる。また、「小糸優」は「七海燈子」にその質問を投げるが、「七海燈子」はそれを聞けず眠ってしまう。
川崎瑞穂は人類学者レヴィ・ストロースを引用しながら、これを「パロールの交換」としてみなしている。また、その形に対しては「集団A→集団B、集団B→集団C、集団C→集団A」で行われる「一般交換」としてみなす(ちなみに、集団AとBの間にだけ行われる場合は「限定交換」と見る)。また、交換と見なすためには、それがあるものへの反礼だという主張をしている。川崎瑞穂によると、「佐伯沙弥香」が「七海燈子」の腕にすがることで「好意」を示したことに対して、「七海燈子」は例の質問をしている。「佐伯沙弥香」は「小糸優」から食事する中で渡されたポテトフライへの反礼として、もしくは運動会で渡されたバトンへの反礼として、この質問を投げている。また、「小糸優」は「七海燈子」からの好意に対して、この質問を投げている。
「佐伯沙弥香」と「小糸優」はお互い恋敵であるはずだが、同時に同じく生徒会という共同体に所属しており、その共同体を修復する義務を持ってお互い参加した、という風に川崎瑞穂は分析している。だが、その共同体に参加するということは、その秩序にしたがうことであり、また権力関係に突入することをも意味する。「七海燈子」にとって、「他人から自分を好きにいられる」ということは「他人から何かを求められる」ということと同じである。彼女はそういった「好き」を与える「贈与の権力」を断っているから、「何色の紫陽花が好きか」という質問を聞き取ることが出来ない。
私から言わせると、この解釈は「七海燈子」は「小糸優」と同じ共同体の構成員になって同じ秩序に置かれることを拒否していることに対して、その共同体を修復しようとすることが『やがて君になる』のテーマである、ということになる。
興味深いのは、ここで川崎瑞穂が「愛」の話をしている所だ。川崎瑞穂は、小糸優が人を好きになるという感情を「持っていない」ながらも、何かを与えようとする立場でいることに注目し、次のように論じている。
もっとも、根本的な問題として、「好き」の一般交換が「解決」となっていることは説明が必要である。「好き」は個人間において「限定交換」されるものと思われがちだからである。ラカンは「愛」を「愛する者amant/愛される者aimè」の結合に由来するものとした上で、「愛とは持っていないものを与えることだ」という有名なテーゼを出しているが、さらにジジェクはそこに「それを欲していない人に」と付け加える。これこそが『やがて君になる』(とりわけ第8話)のメッセージであり(中略)これにより、三者の「一般交換」は強固なものとなる。
ここで、先述した「恋」の規範というのは私的化であることを想起して欲しい。「先輩キャラ」が想定していたような「好き」はまさにそういった「限定交換」に留まれていた。この分析に従うと、『やがて君になる』そうした前提を崩壊する形で「愛」が描かれている。
「七海燈子」が明確に「小糸優」に応答する8巻で、「佐伯沙弥香」が告白したもらった言葉を引用しいる。つまり、「佐伯沙弥香」から「七海燈子」を経て「小糸優」への交換が行われている。
もっと広く言うことも出来るだろう。「槙聖司」が「小糸優」にそうしたように、「佐伯沙弥香」が「七海燈子」に告白したのは大人たち(カフェのオーナー)のアドバイスによるものである。『やがて君になる』で描かれている「愛」は二人だけの私的なものを超えて、公的な領域へと移している。
「好き、以外の言葉で」話すためには、二人だけの会話ではダメだ。それだけでは、一番私的な話である「秘密の会話」だとしても、すぐ「恋」という規範に囚われてしまい「ありきたりな言葉」で変質されててしまう。その「恋」から解放されるためには、二人だけの閉鎖的な空間ではなく、もっと大きな循環が求められる。
ただ、「恋」の規範も共同体によるものであることを忘れてはいけない。「共同体」の内側に住むために「先輩キャラ」はそうした言葉を言っていたのだろう。重要なのは、共同体を修復しようとすること、それを拒否する者に対して循環を成そうとすること、それが「好き、以外の言葉で」語られた「愛」だと『やがて君になる』は私たちに教えている。
参考文献
――上野千鶴子、『女ぎらい :ニッポンのミソジニー』
――川崎瑞穂、「百合と紫陽花 — アニメ『やがて君になる』第8話の範例分析 — 」、『比較文化研究』145、日本比較文化学会、2021。
――松浦優、「アセクシュアル/アロマンティックの多重見当認=複数的指向:中谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」、『現代思想』49、青土社、2021。