Yuri・Parody・Yuri

『<harmony/>』&『青年のための読書クラブ』

Ashihara NepuYona
41 min readSep 3, 2020

Introduction ~ 殺百合現場にて ~

Q:この作品は百合ですか?

この一問は、百合マニアが直面しがちな質問であろう。そしてまた、私がこの記事で扱う二つの小説作品、伊藤計劃の『<harmony/>』と桜庭一樹の『青年のための読書クラブ』も、この質問から逃れられないはずだ。対して、私の答えはこうである:

A:いいえ、厳密には百合ではありません。

「百合でない作品に興味はない」と言うのであれば、この時点で記事を読むことを中止してもらって構わない。厳密には百合ではない、という事を知らせられただけで、書き手としては満足だ。この会報には百合マニアにとって栄養になる記事が他にも書かれているのだし、そちらを読んでもらおう。勿論、その理由を聞きたいという読者もいると思われるし、厳密さの意味が気になる読者や反対の意見をあげる読者もいるだろうから、書き手としてはそのような要望にもちゃんとした答えを出す義務がある。ここで急いで用語法をはっきりしておきたいが、この記事では広い意味での百合もしくは現実のあらゆる作品群に対しては百合と修飾なしで表記し、伝統的にそうだと認識されて来た百合のイメージやテンプレとしての百合に対しては括弧入りの「百合」と表記する。

まず、「何故貴方はこれらの作品を百合ではないと判断したのか」という質問に答えるためには、フィクションの一ジャンルとしての百合や百合ものを定義しなければならない。どれが百合か、百合ではないか、と判断するためには、その基準が必要だからだ。だが、私はこの記事で百合を定義する事はしない。代わりに、私は『ハーモニー』と『読書クラブ』を「百合のパロディ」として見ることで、百合というジャンルが持つ歴史的な性質への探究を試みるつもりだ。「百合のパロディ」も百合の一部だと思う読者にとっては、ややこしくなるだろうが、「百合のパロディ」は百合であっても「百合」ではないという理解の上で先に進む事をお許しいただきたい。

なお、この記事は一応エッセイの類に入るのだが、ある程度は学術的な論文などを引用する。加えて、色んな百合作品の重要プロットや結末にまで積極的に触るつもりなので、ネタバレを避けたいという読者はここで読み飛ばす事をおススメする。

Profiling The Parody Of Yuri

私は『ハーモニー』と『読書クラブ』が厳密には百合ではないと条件付きで返答を書いた。これらの作品は百合として解釈できる要素を確かに持ってはいるのだが、では私から他人に「この作品たちは百合です」とオススメできるのかというと、必ず躊躇ってしまうのだ。その時、私の心に引っかかる重大な要因は「男の存在」だ。まず『ハーモニー』の場合、登場人物である「御冷ミァハ」にとって彼女の性格・人格を作り上げ、テロ行為を起こすにまで至らしめた決定的な事件が「隣に住んでた男の子」の自殺だったという事が結末部で明らかにされる。『読書クラブ』の場合、エピソード「烏丸紅子恋愛事件」では、ミッションスクール「聖マリアナ学園」で生徒たちの人気投票で「王子」となった烏丸紅子が実は男と付き合っていた事が後で発覚しそれを切っ掛けに学園から中退してしまう。また、エピソード「聖女マリアナ消失事件」ではこのミッションスクールの設立者である聖女「マリアナ」が、実は彼女の死に責任を感じたお兄さん「ミシェール」の女装だったという事実が明かされる

念のために言っておくが、百合であるためには作中で男の存在は抹消されるべきだ、と言うほどの原理主義をこの記事で訴えるつもりは全くない。そうではなくて、二つの作品で「男の存在」がどう機能するか、という事を読者たちに注目してもらいたい。どちらの作品も「百合」と解釈できる要素を持って受け手に「百合」を期待させておきながら、結末部に「男の存在」を登場させる事でその期待を裏切っている。単に「百合」という解釈が受け手による錯覚だとか、そう言った結末が物語を収拾させるための手段だったと言うレベルであれば、ここまで記事を書く必要はない。どちらにせよ明確な意図を持って行われた「百合のパロディ」だというのが私の判断だ。

では、どのように受け手を期待させ、どのように裏切っていくのかを具体的に見てみよう。

『ハーモニー』は、人類が健康と思いやりを第一価値とする生命主義の基で作り上げた近未来監視社会を描くSF作品である。話者であり主人公でもある「霧慧トァン」は、高校の頃に親友「零下堂キアン」と一緒に学内でカリスマ的な存在である「御冷ミァハ」に惹かれて、三人で生命主義社会を拒否すると示すために断食自殺を図る。だが、二人は失敗し、御冷ミァハだけが自殺に成功する事になる。その日をきっかけに、霧慧トァンは御冷ミァハの影を追い始め彼女のようになろうと努力する。成人になった彼女は戦場に出るWHOの「螺旋監察事務局」の監察官になるが、零下堂キアンを含めて世界中の人々が一気に自殺するテロ行為を目の当たりにして、その裏に死んだはずの御冷ミァハの気配を感じ取り調査を始める…

こうプロットをまとめてみると、ここで一番強く関係が結ばれているのは霧慧トァンと御冷ミァハであるように思われる。作中の表現から推察しても、御冷ミァハは生命主義を憎み行動に出る「兵士」や「同志」として霧慧トァンと零下堂キアンを選んだようであるし、一方で、霧慧トァンは御冷ミァハに対して憧れや信仰に近い感情を持っており、作中で何度もこれはプライベートな調査に過ぎないと明言している。こうして見ると、二人はお互いを心の中で大きな存在だと思っていると言って過言ではないだろうう。しかし、私達の期待とは裏腹に、御冷ミァハは物語の結末部で「隣に住んでた男の子」の自殺が彼女の人格や行動に強く影響していたことを告白し、霧慧トァンは親友の零下堂キアンに自殺するよう仕向けた御冷ミァハを許すことができず、最終的には彼女を殺すに至ってしまう。

以下はちょっと恥ずかしい文章になるが、改めて再び二人を描写してみよう。

ミステリアスな雰囲気で、何でも知っているしできる天才で、ハスキーなボイスで他人に冷たい美人、御冷ミァハ。そして、何故か彼女のお気に入りになった、内省的で自分をそこまで目立たない存在だと思っている霧慧トァン。

これだけで二人の関係は「何故か」「百合っぽく」見える。この「何故か」「百合っぽく」見える事については後で詳しく扱うが、ひとまずこれを認めてしまえば、「読者はこの作品が百合であることを期待している」という推測自体に無理はないだろう。その期待に応えるように作中で話者・霧慧トァンはしつこく御冷ミァハとの思い出について語っている。それなのに最終的には、「お互いにそこまで大きな存在ではなかった」という結末になっているのだ。つまり『ハーモニー』においては、「読者の期待を裏切る方向」で結末(とそこで語られる<男の存在>)が機能しており、したがってこの作品は意図的に「百合」のイメージを利用しながらも、それに逆らうような構図になっている。それは、文学研究家ミハイル・M・バフチンが言ったパロディ的様式化の性質、「再現するディスクールは再現されるディスクールに対して闘争し、再現されるディスクールの生産的な助けを得るよりはそのディスクールの実像を暴露してそれを破壊する事で実際の対象の世界を描く」事に当てはまる作業だ。

『読書クラブ』にいたっては、そのパロディ性は『ハーモニー』よりもさらに露骨である。『読書クラブ』の舞台はすでに書いているように、「聖マリアナ学園」という1919年に設立されたミッションスクールである。この小説は、「閉ざされた乙女の楽園」たる「聖マリアナ学園」の中でも「ダウンタウンの薄汚れたパブ」で、「労働者が集まりビールを1パイトン飲んで、古い新聞紙に包んだフィッシュ&チップスを食べ」るような「読書クラブ」部員たちによる読書クラブ誌という設定で、1960年から2019年までの出来事を記録した(ただし、その順番と内容はミックスされている)連作小説である。

『読書クラブ』はその設定から分かるように、「ミッションスクールの女生徒たち」をはずれ者である「読書クラブ」部員たちの視点から記録する事によりそのイメージを解体していく作品だ。これは言うまでもなくパロディの手法である。勿論、この小説がパロディしている対象は少女小説であって百合と断言するのは難しいが、「ミッションスクールの女生徒たち」というイメージから「何故か」「百合っぽい」だろうと予測する読者は決して少なくないだろう。

もちろん、「百合」は「ミッションスクールで女生徒たちがキャハハうふふ~するジャンルでしょ」などと言われていたのは今となっては昔のことだ。しかし、それが「何故か」「百合っぽく」語られていた時代は確かにあったし、今でもそれをパロディする作品(例えば、漫画『まりあ†ほりっく』、漫画『私の百合はお仕事です!』など)は存在する。ついでに言えば、「社会人百合」は今でこそ特殊なジャンルではなくなったが、「社会人」が修飾語としてついているのは、少なくともその初期においては百合の特殊形として捉えられていたからであろう。

さて、話を『読書クラブ』に戻そう。『読書クラブ』で最初のエピソードに当たる「烏丸紅子恋愛事件」は、『読書クラブ』がこれから行う作業の在り方を読者たちに強く印象付ける役割を果たしている 。1969年、「烏丸紅子」は大阪から東京の聖マリアナ学園に転校する。彼女は貴族的な見た目をしているが、実際は大阪の貧乏な家庭の育ちであり、学園に転校してきたのもまったく偶然の出来事で、他の生徒と馴染むことができなかった。彼女は居場所を探して「読書クラブ」に入る事になるのだが、そこで、不細工な外見のせいで読書クラブに流された「妹尾アザミ」が紅子を利用して学園を支配しようとする所から物語は始まる。アザミが権力獲得のために行ったのは、紅子を「偽の男」で「女王蟻」にすることーーすなわち、彼女を学園祭の投票で選ばれる「王子」にする事であった。

このエピソードでは戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』が引用され、その少女小説的な再解釈もまた行われているのだが、今の私たちの関心ではないので割愛しよう。それよりも私たちが注目するべきなのは、アザミが選んだ「王子」のタイプとそのロールプレイである。アザミはまず少女たちの「抑圧された性欲」の「捌け口となる」「安全で華やかなスター」であろう「王子」のタイプとして「不良少年」を選んだ。アザミの判断によれば、「乙女心」で「性欲の行き着く先」は「孤独なアウトロー」であった。アザミは、その上で、紅子に同じ読書クラブの部員である「村雨蕾」と「恋をする」事を命じる。

村雨蕾は「小柄で瞳がくりくりとし」「乳房の大きさと女性性の強烈さによって、学園では異形の少女と分類されて」いる少女であった。アザミは紅子に、蕾が車に轢かれそうになったところを救出させ、「可憐といえないこともな」い蕾が「不良少年」紅子の「一人だけの親友」、「サムワン」となって、孤独に見えていた「不良少年」紅子がまるくなるような「恋」を演じさせた。この芝居が如何に細かいか本文を引用してみよう。

二人は公園のあちこちで、まるでそこが二人のほかに誰もいないうつくしき廃墟であるかのように、互いだけをみつめて、語らい、微笑みあった。蕾はけして紅子と同等の態度を取らず、いつもひざまずいて見上げるか、すこし離れたところから小首をかしげてみつめていた。それはまさに少女たちが夢見る紅子との友情そのものであった。(強調は筆者によるもの)

その後に、学園のシスターに二人の「不純同性交遊」の事実を目撃させて、紅子から蕾への「愛」を告白させる事でアザミは「大衆」の心を捉え紅子を王子にさせることに成功する。その中でアザミが紅子に言わせたセリフである「ぼくたちは限りなく精神的な存在」は女生徒たちに受けが良かったのだが、当の紅子自身は「私は女だ。女とは肉体なのだ。」と考えていたことにもついでに言及しておこう。

ここまで読んでもらった読者ならば、アザミが企画したこのロールプレイに何処か既視感を覚えるのではないだろうか。ミステリアスな雰囲気漂う、孤独でクールである、不良少年烏丸紅子。そして、何故か彼女のお気に入りになっている、美しくはないが如何にも女らしく可憐にも見える村雨蕾。この組み合わせだけで、「何故か」「百合っぽく」見えるのではないか。また同時に、アザミが紅子にはっきり「恋をする」と言ったのに対して、女生徒たちが見出したのは「精神的」な「紅子との友情」であった事や、それが実際にはアザミの考えた「少女たちのファンタジー」であった事にも注目すべきだろう。つまり、ここでアザミは女生徒たちの幻想を満足させるために「百合」を演出したのである。

紅子は「王子」になったが、彼女の本物の恋は、不良少年を演じるために出ていたディスコの夜遊びで出会った不良工員に向かっていて、結局、彼女はそのまま妊娠することになる。彼女は学園を中退して結婚する事を決心し、「わたしはいま、幸せです。みんなも男の人と出会って、幸せになる事を願います」と言ったが、その「肉体」の「女」の「不純異性交遊」に女生徒たちは「死ーね!」を連呼。これに対し、紅子は未練もなく「…なんでやねん」と今まで封印していた大阪弁で対応してる。

これは、百合マニアとしては望ましくない結末であり、それこそ、近代ロマンティック・ラブ・イデオロギーを擁護している、という批判から逃れないのであろう。だがそうした一方で、その紅子さえ「このあいまいさこそ、女なのだ」と思った聖マリアナの肖像画は、実は男であるミシェールの女装だったという事実が次のエピソードで明かされる事になる。四番目のエピソード「一番星」にでは、自分の「サムワン」の名前として他の読書クラブの同級生の名前を出す登場人物が中心となるので、この作品全般を家父長制への復帰だと判断するのは無理があるだろう。

だとすると、このエピソードが解体したかったのは正しく乙女心、言い換えれば「少女たちのファンタジー」であろう。だが、私たちはどうして、その少女たちのファンタジーから「何故か」「百合っぽい」と感じるのであろうか。そして、何故その少女たちのファンタジー=「精神的な存在の間の関係」に対して、紅子は自分が「肉体」の「女」である事を考えていたんだろう。その理由を説明するためには、少女マンガ研究家である藤本由香里氏の概念「深紅の薔薇と砂糖菓子」を紹介する必要がある。

「何故か」・「百合っぽく」・「深紅の薔薇と砂糖菓子」

「深紅の薔薇と砂糖菓子」とは、藤本由香里氏の著書『私の居場所はどこにあるの?-少女マンガが映す心のかたち』で登場した概念である。同氏は「レズビアンー女であることを愛せるか」において、少女マンガの中でも特に「レズビアンもの」と呼ばれる作品群を分析し、それらに共通する要素について以下のように指摘している。

まず、主人公の二人が、美人でかっこよく、はっきりした性格のスーパーウーマンタイプと、いかにも女の子女の子したあどけないタイプに設定されていること。これをそのイメージをとって便宜上、”深紅の薔薇と砂糖菓子”と呼んでおこう。

次に、この二人ーとくに薔薇の方ーが、家庭的な不幸を背負っていると設定されていること。砂糖菓子の方は必ずしもそうではないが、それでもいくぶんがは不幸に設定されていて、どうも薔薇への傾倒ぶりはその家庭的な不幸の割合に比例するようである。

(中略)

それから、二人のレズビアン関係が、必ず周囲の心ない人々に噂になって、スキャンダルとして扱われること。レズビアンとばらすぞ、と写真をたねに脅迫する、というのもしばしば登場するパターンである(中略)そしてその結果、せめて砂糖菓子だけでも守ろうと、薔薇は脅迫者を殺して自殺(『深紅に燃ゆ』)、あるいは絶望から自殺に近い死をとげる(『彼女たち』「白い部屋のふたり」)、というように、どういうわけか全部が全部、薔薇の方が死ぬことになっている。

これらに加えて同氏は、「二人が実は姉妹だった」という設定によって同性愛を姉妹愛に転換させる作品が多く見受けられる事や、その中でも軽いタッチで同性愛を肯定する作品は少ないという事を報告している。ただし、この本の初版は1998年に発売されたものであり、扱っているのは70年代から80年代までの少女マンガ作品だけである。対して次の項である「女性愛ー時代は明るいレズビアン」で紹介されるのは、こういった様式から離れた90年代の「明るい」レズビアンものであり、その行き着く先は、私たちがよく知る、姉妹愛やアウティングといった条件から解放された「百合」の姿である。だが、第一の条件であった「深紅の薔薇と砂糖菓子」の組み合わせ ーー中心となる人物の中で一方がミステリアスでクールな美少女であり、一方は明るくて元気な女の子として設定されている事ーは百合の中で反復的にみられる。特にTVアニメの例を挙げると次のようになるだろう。

「魔法少女リリカルなのは」(2004)のフェイト・テスタロッサと高町なのは
「CANAAN」(2009)のカナンと大沢マリア
「魔法少女まどか☆マギカ」(2011)の暁美ほむらと鹿目まどか
「アイドルマスターシンデレラガールズ」(2015)の渋谷凛と島村卯月
「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」(2018)の神楽ひかりと愛城華恋

これだけが全てではないし、例外が無いわけでもないが、ここまで羅列しておけば、「深紅の薔薇と砂糖菓子」が長きにわたり愛されてきたと主張する事には十分であろう。この「深紅の薔薇と砂糖菓子」の組み合わせが、『ハーモニー』と『読書クラブ』から「何故か」「百合っぽく」感じられる原因なのであり、当の作品たちがパロディのため使った既存のイメージなのだ。

また、この本では言及されていないが、著者である藤本由香里が2020年2月25日に韓国のソウル大学で行った公開講義「少女マンガの中の女性同士の愛」では、このレズビアンものの共通要素として新たに、中心人物二人が「ロミオとジュリエット」などの演劇を行うという要素を指摘している(https://www.webtooninsight.co.kr/Forum/Content/6783)。これも今までも良く使われている要素と言って良いのであろう(例えば、漫画『やがて君になる』、TVアニメ「少女☆歌劇 レビュースタァライト」)。

ここで藤本由香里の「深紅の薔薇と砂糖菓子」概念やレズビアンものにおける共通要素をもっと広い視野でとらえた一つの論文を見てみよう。韓国の雑誌『퀴어인문잡지 삐라(クィア人文雑誌ぴら)』で連載された、イ・ソ(이 서)の連作論文「언니 저 달나라로(お姉さま、あの月の国へ)」の一番目「언니 저 달나라로:백합물과 1910–30년대 동북아시아 여학생 문화(お姉さま、あの月の国へ:百合ものと1910-30年代東北アジア女学生文化)」(2012)がそれである。

イ・ソによれば、「深紅の薔薇と砂糖菓子」の要素は吉屋信子の『花物語』まで遡って発見されることができる。勿論、これは藤本由香里も同じく指摘している事だ。そのうえでイ・ソはさらに論議を広げ、この『花物語』と現代の百合ものの間に共通して発見できる別の要素を指摘する。

同氏は、1910年代から1930年代にわたる近代的な「女学生」イメージが、百合ものにノスタルジックに含まれているという。例えば、1910年代ー1920年代の通俗恋愛小説で使われていたようなフランス語でお互いを呼ぶ慣習(TVアニメ「ストロベリー・パニック」、漫画『おにいさまへ…』)や明治時代風の学校施設(漫画『青い花』)、お嬢様学園(『マリア様がみてる』)などである。また、悲劇的な結末、とまでは行かなくても、これらのレズビアン的な体験はあくまでも学校内の出来事で完結しており、多くの場合は「片側が死んだり消えて戻ってこない」(死亡:「おにいさまへ…」の朝霞れい、「神無月の巫女」の姫宮千歌音、「ヤミと帽子と本の旅人」の初美。消える:「マリア様がみてる」の久保、「少女革命ウテナ」の天上ウテナ)のだとイ・ソは主張している。

イ・ソの論文は2012年に書かれている以上、その時期から見ても現代の百合ものの傾向をよく捉えていると言えないが、近代的な「女学生」のイメージが「ミッションスクールで女生徒たちが~」みたいな「百合」に対する古いイメージに重なっているという指摘を参考するだけでも、『ハーモニー』と『読書クラブ』のパロディ要素を分析しようとする私たちには十分に有用なものだ。例えば、イ・ソもその例示として上げているが、『マリア様がみてる』は3巻「いばらの森」でも戦前の小説という要素を物語に組み入れる事により、近代的な「女学生」の要素やそれが反映されていたエス小説を現代的に再解釈してる事に成功している。『マリア様がみてる』の影響力(https://www.hayakawabooks.com/n/n377845272272)などを考えるとしたら、『ハーモニー』や『読書クラブ』が直接に『マリア様がみてる』の言及をしていなくとも、それら作品が模倣しようする「百合」に多く影響しているだろうし、したがって「百合のパロディ」作品にも近代的な「女学生」のイメージが影を落としてると言えるだろう。

(『私の居場所はどこにあるの?-少女マンガが映す心のかたち』でも、「お姉さま、あの月の国へ:百合ものと1910-30年代東北アジア女学生文化」でも、それらの作品が悲劇的な結末を向えた理由を分析しており、両方とも私たちに重要な観点ではあるのだが、今の時点では保留しておこう。)

『ハーモニー』の場合は、近代的な女学生とはイメージが違うのではないか、という指摘もあり得るだろう。確かに、主人公三人が出会った学校が女学校であったという暗示は出て来ないし、近代的な建物すらもこの小説には出て来ない。学生時代を回想しこそするものの、物語が本格的に動き始めるのは、三人が成人したあとだ。だが、ここで私は、『ハーモニー』の世界こそが、大きなミッションスクールに過ぎない、と主張する。『ハーモニー』の世界での空港を描写した場面をすこしだけ見てみよう。

権威的な空間や強迫的な色を、細心の注意を払って取り除いてある空港のロビーを足早に横切る。赤紫の内装に、イエローのテーブル群がひときわ浮き上がって目を惹く。荷物を後ろ手に引きながら地下鉄へ向かおうとするわたしに、キアンが寄り添って歩いてきた。これだけ天井が高くてこれだけだだっ広い空間だというのに、ここには少しも権力の匂いがしない。匂いがないのが生府流。巨大な建築空間というものは、ファッショの匂いを、モニュメンタルであらんとする権力の驕りを、どんなかたちであれ否応なくにじみ出させてしまうものだ。(中略)だから、その匂いを完全に拭い去るには、ぞっとするような「優しさ」に関するテクノロジーが大量動員されているはず。

勿論、『読書クラブ』の背景である「聖マリアナ学園」には、その中央に「聖マリアナの銅像」があり、シスターたちが生徒たちへの管理者として存在しているので、『ハーモニー』世界の空港とは別のモノである事はこの引用で書いている通りだ。学校生活を含む広い意味での空間として見ても、「聖マリアナ学園」は生徒の間でも階級が分化されていて、『ハーモニー』の世界とは違うように見える。ただ、「聖マリアナ学園」は現実に存在するミッションスクールをその基にしている上に、あくまでも「読書クラブ」部員たちの目で描写されている事を忘れてはならない。もし、マリアナが思ったように「神の御心を伝え、正しい道を進むよう」な理念を生徒全員が自発的に実践していたらどうであろう。そこに聖マリアナを喚起するような肖像画・銅像は必要なのだろうか。

『ハーモニー』が設定する「生命主義」社会は、その価値観を強制的ではない方法で内面化させている。より正確に言えば、何もかもを「内面化」することが生命主義の戦略である。それは、健康監視システムにより文字通り体内に組み込まれたナノマシンであり、その監視結果を公開し構成員同士が地域単位でユーザー評価のような「社会評価点」による支配でもある。そのプロセスは「みんなに力を細かく割って配り過ぎた結果、何でもできなくなって」しまうほどの脱中心化と、各個人による内面化で成り立っている。そうする事により個人の体が直ちに公共のものになる。つまり、『ハーモニー』の世界では「命は神の所有物から、みんなの所有物へとかたちを変え」、神がみんなの中にみんなとして細かく割って存在しているのだ。

こうして見ると、空港の描写で「権力の匂いがしない」のは、権力が存在しないからではなく権力が普遍的になり過ぎたからである。『ハーモニー』の世界の土台はミシェル・フーコーが論じた生権力の問題やジグムント・バウマンなどが主張したリキッド・モダリティだろうが、この記事ではそこまでは踏み込まない。私たちにとって重要なのは、そういった宗教的 ーー 特にキリスト教的に比喩されやすい生命主義の価値観が、「何故か」「百合っぽい」ミッションスクールを想起させるという事だ。

東アジアでは近代における女性教育施設がミッションスクールとして誕生した場合が多い。勿論、ミッションスクールが女性教育施設だけを意味するのではないし、全ての女学校がミッションスクールでもない。が、今の韓国でも多くの女子大学はそういった近代初期に設立された学園から発展した所が多く、日本の所謂お嬢様学園もそういった場合が多いのは間違いないだろう。つまり、「何故か」「百合っぽい」と認識されるミッションスクールには以下のような三つの特徴があると言えるだろう。まずは、「近代的な教育施設」である事。二つ目はそれが「女性を教育の対象にしている」事。最後に、それが「宗教的な色彩を帯びている」という事。この三つは個別的に「何故か」「百合っぽい」イメージを形成するというよりは、お互いに強く結ばれる事でそうしたイメージを形成していると言える。

その三つの特徴からまず指摘できるのは、近代教育が持った監視・管理施設としての性格が『ハーモニー』の監視社会に繋がっているという事だ。これはミシェル・フーコーが研究したテーマで、ここでは短く整理しておく。近代の監獄では、多数の囚人を処罰するだけではなく再社会化する訓練が行われ、そのための効率的な管理も必要とされる。だが、その「訓練」と「管理」の側面は監獄だけにとどまらず、近代の教育機関にも導入されており、例えば、テストなどで学生の後ろから監視する先生は、囚人たちに監視の視線を内面化する「パノプティコン」と全く同じ原理で学生たちを管理しているのだ。

『ハーモニー』は、そういった視線が存在する事をただ描写するだけでなく、その視線の内実を独特に設定する事で他の監視社会を描いた作品との差別化に成功している。空港の描写からも分かるように、『ハーモニー』ではやたらにキリスト教と生命主義を比べる所が多い。それは二つの価値観の違いを引き出すための手段でもあるが、「シスターによる政治」、「慈母によるファシズム」と言った表現はそれ以上の意味を持つ。つまり、『ハーモニー』ではキリスト教で「慈母」や「聖母」として描写される母性による監視が行われているのだ。ミッションスクールの残り二つの特徴「女性を教育対象として」、「宗教的な色彩を帯びている」事を補助線にしてこれを見れば、その性格がもっと明確になるだろう。

今でもそういった傾向が完全に消えたとは言いにくいが、近代教育において女性は男性とは違う方向性を求められていた事は確かだ。例えば、1930年代朝鮮では、ある女学校の教育方針に総督府の趣旨に従う上に「国家の中堅主婦」として学生たちを育成するという表現が出てくる。これは、女性に対しての教育が卒業後の進学よりは結婚を目的にして為されていた事を意味する。「主婦」になる事を前提として女性を教育していた事は、当時の植民地朝鮮に限った出来事ではなく帝国日本においても同様だったのであろう。

では、近代的「女学生」たちが「予備主婦」として内面化すべき視線や価値観とはなんだったのだろうか。それは、私たちが論議しているミッションスクールに絞って言えば、彼女たちの管理者であるシスターの視線とそれが代弁する宗教的な価値観だと言える。言い換えれば、肉体的には永遠に純潔な処女でありながらも、精神的には家庭を管理し子供たちを見守る母親ーー聖母マリアのような存在になる事が女学生たちに求められていた。ここで「子供を見守る母親」の役割とは、旧約聖書で見られるような「処罰する父親」としての神様とは対照的に、「主婦」として家内の経済を管理し、人的リソースを再生産し、「処罰」とは違う「福祉」を担当する事である。また、教育対象に求められる未来の姿が同時に今の監視者・管理者から求められる理想的な姿である事も重要なポイントだ。

こういった仕組みがもし世界単位で行われ、誰もが卒業する事もなくずっとその生活を続けるとしたら、そこでは監視者と監視対象の区別が不可能となるだろう。『ハーモニー』の世界がまさにそうなっているのだ、というのが私の解釈だ。

実際の状況では、学生たちは教育方針に従った訳でなく、シスターたちもみながみな慈悲あふれる人物だった訳でもないだろう。教育を受けた近代の女性たちが「モダンガール」になった事で「良妻賢母」理念の脅威となった事や、「女性らしさ」を表す振る舞いは女学校の内ではなく男女共学の内でもっと頻繁に見られる事、つまり、男女共学では女学生たちは学内でも「女装」しなければならないという事に対する指摘も存在している。それを踏まえた上でもう一つ、近代的な「女学生」のイメージと『ハーモニー』の回想場面を比べてみよう。女学校は「主婦」になるための教育を行っていたが、逆に言えばその教育期間は、「主婦」という役割が与えられるまでの限られた猶予期間でもあった。

吉屋信子の時代には、女学校というのは「結婚」までの避難所であり、「結婚」というのは、たいてい否も応もなく親から押しつけられるものだった。したがって少女たちは、その「結婚」までの限られた時間の中で、唯一自分で自由に選びとれる愛、すなわち女どうしの愛のファンタジーを求め、それを味わったのである。(強調は原文から)

『ハーモニー』の世界では、子供はまだ成長して変化するため、恒常性を前提とする「WatchMe」を体に入れるのはオトナになってからとされている。そういった状況下で「深紅の薔薇と砂糖菓子」としてミァハとトァンが出会い、猶予期間の間に一緒に自殺する事を企むわけだ。その関係は憧れや兵士たちの絆のようなものでロマンチックではないのかもしれないが、逆に言えばそうする事で「友情」にも「恋」にも見える曖昧さを獲得しているとも言えるだろう。ちなみに、『ハーモニー』の作者である伊藤計劃は、この本が出る前に自分のブログで紹介する時にやたらと「百合」を言及している。

「自分で言うのも何ですが、ちょっとだけ百合っぽいです。」(https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20081018/p1)

「女子を主人公にしたのは百合っぽさというか、女子がつるんで不穏なことをしたがっているのが書きたかったからです」(https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20081208/p1)

テーマは百合です。女版タイラー・ダーデンといちゃいちゃする主人公が見物です。(https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20081214/p1)

興味深いのは、いずれの文でも「百合」ではなく「百合っぽい」と書いてある点だ。「ジャンルは百合」ではなく「テーマは百合」と宣伝しているところもそうだ。これはデビュー前からナイーブな男性青年を主人公にした作者として自信の無さを表した発言としても読めるが、同時に『ハーモニー』が「百合」を扱っているだけで「百合」ではない事 ーーこの記事で言った「百合のパロディ」であることに自覚的だからこその発言だと思われる。

的を外れてしまった矢による犯行

百合の性質を探求するという記事の目的に忠実であるためには、二つの作品が仮に「百合のパロディ」であったとして、「何故か」「百合っぽい」と考えられた既存イメージや、それらが「百合」ジャンルにもたらした効果は何なのかという質問に対して答える必要がある。そのために私は、二つの作品に対して考察の範囲を超える批評ーー良いか悪いかの判断ーーをしてみるつもりだ。だが、ここでの判断基準はあくまでも「百合のパロディ」だと条件を付けておこう。私は『ハーモニー』や『読書クラブ』が「百合」や「百合のパロディ」としてのみ存在しているとは思っていない。そもそも「百合のパロディ」をする事は二つの作品の最終目的ではないと思っている。ただ、多くの論点をこの記事で踏み込まなかったように、他の基準にもとづく批評はしないということだ。

さて、結論から述べよう。

私は「百合のパロディ」として『読書クラブ』を『ハーモニー』より高く評価している。だが、どちらもその狙いに成功したパロディだったとは言えない。何故そう評価したのかをこれから説明しよう。

まずは『読書クラブ』から始めよう。すでに書いたように、『読書クラブ』では「烏丸紅子恋愛事件」において家父長制を擁護するような結末が描かれたし、百合ファンの多くはこれに不満を持つのかもしれない。だが同時に、そう結論付けるには様々な反例が作中にある事も確認した。何故、一つの作品がこんなに色んな側面を持っているのだろう。

それは、『読書クラブ』がある共同体の短くない歴史を記した作品だからだ。この作品は、1919年に設立した「聖マリアナ学園」がちょうど百年後である2019年に男女共学になるところで終わる。最後のエピソードである「ハビトゥス&プラティーク」は、最後の部員「五月雨永遠」が物語の主人公だが、彼女個人の物語として読むには何かが引っかかる。例えば、教務室によく通う彼女が軽い気持ちで生徒たちの押収品を盗んで取り返した行為が、古典文学『紅はこべ』に出てくる義賊の名前を借りた「ブーゲンビリアの君」と呼ばれる仮想人物の偉業に重なり「聖マリアナ学園」の生徒たちの胸を躍らせる 、 という展開はあまりにも「烏丸紅子恋愛事件」事件に似ている。それに彼女の外見描写は「烏丸紅子恋愛事件」の中心人物、妹尾アザミを思い起こさせる。それだけではなく、そのアザミが保守党の国会議員として生徒たちの前に現れるのだ。その上で名前が「五月雨永遠」である。これは、読書クラブ最後の部員としてはあまりにも出来過ぎている。彼女は個人というより、今まで存在した読書クラブ部員たちのコラージュに近い存在なのだ。

すこし話題が変わるが、『読書クラブ』の中で繰り返し出てくる文章がある。それは「閉ざされた乙女の楽園」として「聖マリアナ学園」は世間とは関わりがないといった表現だ。例えば、「そういった時代の空気はまったく関係がなかった」、「外の世界がどれだけ変わろうとも、学園は、そして中枢たる生徒会は揺らぐことがなかった。」、「学園は相変わらず、外から見れば薄絹のようなヴェールで包まれており」などなど。だが実際には、学園は外の世界と連動しており、特に読書クラブのクラブ誌に書かれている出来事はそうした歴史の産物だ。例えば、1918年には流行性の風邪に引いてしまったミシェールの代わりに聖マリアナが死んで、そのミシェールが日本に旅立ち聖マリアナ学園を設立する事になっている。1918年に流行した、と言えば、かの有名な「スペイン風邪」であろう。一番目のエピソード「烏丸紅子恋愛事件」は烏丸紅子が暗黒舞踏を見に行って出会ったと思われる不良工員の存在がなければ、結末は変わっていたはずだ。そして、この事件が発生したのは1968年。同時代の全共闘世代や彼らのアングラブームと関係がないと言えるだろうか。エピソード「奇妙な旅人」で行われた革命に至っては、1980年代のバブルと関係があると話者が明言している。逆に、以後(発刊当時の時点で)未来の出来事を扱うエピソードでは「少子化」問題が繰り返し物語の背景に出てくる。これは私の憶測ではあるが、2009年を舞台にしたエピソード「一番星」(読書部員として学内でロックスターになった山口十五夜が主人公)は、2000年代に起きたガールズバンドブームに基づいて書かれたものではないだろうか。

話をエピソード「ハビトゥス&プラティーク」に戻そう。結末に明かされる真実によれば、この物語を記録したのは五月雨永遠ではなく、かと言って、その五月雨永遠から読書クラブ誌を渡された妹尾アザミでもなく、彼女らの事情を聴いた匿名の人物であった。匿名の人物が聞いた通りに誠実に出来事を記録したと信じるとしても、想像力を発揮すれば、その出来事が妹尾アザミの創作によるものではないという証拠は何処にもない事が分かる。だが、ここではそのような叙述トリックの真偽を扱うためにこの話を持って来たのではない。

最後のエピソードが主人公ではなく他人によって二重・三重の入れ子構造で語られた理由は、『読書クラブ』と読書クラブ誌が「彼女たちの歴史」として存在しているためだと思われる。最後のエピソードで読書クラブ誌は、五月雨永遠の個人のものになるのではなく「慣習と振る舞い」という読書クラブOGたちが経営するカフェのものとなる。そこでは、まるで童話の中に登場する魔女のような姿になった、かつての読書クラブ部員たちが集まっている。この「慣習と振る舞い」は、言うまでもなくフランスの社会学者ピエール・ブルデューの論文「Structures, habitus, practices(構造、ハビトゥス、実践)」からの引用であろう。ハビトゥスの概念が社会的な条件や学習を前提としている事を考えれば、叙述の多重構造はやはり、「聖マリアナ学園」のようなミッションスクールが社会とは孤立された「閉ざされた乙女の楽園」ではない事、そしてそれが彼女たちによって共有されている事を暗に見せるために存在するのであろう。

私たちの議論との関連で言えば、『読書クラブ』は「何故か」「百合っぽく」考えられるミッションスクールのイメージを借りながらも、各時代を駆け抜けた歴史的・社会的な存在としての「乙女」たちを描いたと言えるし、不良工員やミシェールなどの「男の存在」はそういった外の世界に繋がる手がかりだと言えるだろう。そうすることにより『読書クラブ』は読者の期待を裏切りながらも、彼女たちの過ごす日々がが学校の中だけで許されるひと時の青春ではないことを表現している。登場人物たちは、乙女ではなく老婆の姿として、また登場するのだ。

ここで、保留していた問題を取り上げよう。藤本由香里とイ・ソは、なぜ百合ものがすぐ悲劇になると見ていたのか。藤本由香里によれば、少女マンガの欲望は「他者による自己肯定」に基づいている。だが、そこで「女」という符号はマイナスな性質を持っており、「「(自分の愛した)男に好かれるということによってしか女は自分の性を肯定できない」(強調は原文から)という前提をおいたうえで、男性とのロマンスで劇的な反転が起こる事で承認欲求は満たされると説明している。つまり、そういった男と同じ権威を持っていない女から愛される事は、少女マンガの関係者たちに、反射的に「現実」を想起させ、悲劇に走らせたと言うのだ。作者の言葉を借りると、

それは、この男性社会そのものによって刷りこまれた存在の不安、しかもそれを救ってくれるものもまた男性しかない、と思い込まされているという巧妙な支配の構造を浮かびあがらせる。

イ・ソの分析もそれから遠くはないが、もっと歴史的に考えようとしている。イ・ソによると、近代の東アジアにおいて自由恋愛という概念そのものが新しく受容されたものである。例えば、夏目漱石が「恋」や「愛」という表現の代わりに直接「ラブ」と言った英語表現を使った事などもそう言った自由恋愛の概念が定着していない頃の産物だ。それは、同性愛についても同じ事であった。家門同士の結婚ではない「自由恋愛」という概念がなければ、西欧と同じような同性愛も存在しない。日本では近代的な同性愛が特に「女性の間のもの」と認識され、例えば、1930年代の性科学者である安田徳太郎は「ところが今日の新聞の社会面をみると、何んと女同志の同性愛心中が多いことか。まるで同性愛は今日では女子によって独占されているよう」だと書いている。それは、日本というフレームを通じてあらゆる近代的概念を輸入してきた朝鮮や台湾でも同じように言えるのであって、同氏は、ここでの概念を一般的な意味の「同性愛」と区別して「同性恋愛」として書いている。引用からも分かるように、同性愛心中が流行ったのも同じく概ね女性たちによるものだと認識されてきた。そして、後になって異性愛が西欧と同じく「正常たるもの」と認識されるまでには、「不純異性交遊」が女学生たちの純潔を脅すタブーであった一方、「同性恋愛」は「学内」では許されていたのだ。(以上の論議で、イさんはGregory M. Pflugfelder. “S” is for sister : Schoolgirl intimacy and “same sex love” in early twentieth-century Japan. Babara Molony, Kathleen Uno. “Gendering Modern Japanese History”.Harvard Univ Press. 2005.を多く引用している。)。「百合」というジャンルはこの時の記憶と強く結ばれていて、それを意識的・無意識的に再現し、現代の百合ものでも近代の同性愛心中をトレースする「一方が消えるか死ぬ」結末が散見される 、というのがイ氏の主張だ。

たとえ、他の生徒たちが彼らを覚えるとしても、残されたものは若干のノスタルジアの中でその時間を見ながら回想に沈めるだけだ。危険だった熱情は輝いた時の思い出の中で安全に縫合される。「彼女は最初から存在してなかった」。

ここで、『読書クラブ』の年代記としての性格は、そうした問題への答えとして見る事が出来る。登場人物たちが生きる世界は、「学内」でアザミが作り出した「安全で華やかなスター」「王子」と「サムワン」の同性恋愛ロールプレイが繰り返される空間ではない。「女」は肉体である事だと考える紅子は、その「女」としての自分を肯定して「聖マリアナ学園」と決別する(不良工員の存在は言及されるが、その時点は全く出て来ない)。そして、登場人物はいつまでも「女学生」である訳ではなく、老けてその格好が「化猫のような老婆」になったとしても読書家として生き続ける。また、同性恋愛が中心となるエピソード「一番星」が発刊当時としては未来である2009年を背景にして、一方が消えるか死ぬかのエンディングではない物語に仕上げているので、新たな希望の物語として読むことも出来る。が、そう考えても、『読書クラブ』が「百合のパロディ」として「何故か」「百合っぽい」要素が持つ意味を積極的に利用し新たな展開を見せたとは言えない。それは、「一番星」の登場人物たちが作中である2019年時点で「老婆」の仲間になるには無理があったとしても、彼女たちのその後が明確に記録されておらず、したがって、学外での同性恋愛が持つ意味や歴史性を積極的にしか表していないからだ。

そういった意味では『ハーモニー』は『読書クラブ』よりも私たちを失望させる内容だ。『ハーモニー』は、「百合」を期待する読者たちを裏切ったのは良いものの、「深紅の薔薇が死ぬ」という結末はそのまま維持している。勿論、この展開は一般的なパターンとは少し異なった様相を呈している。二人の同性愛心中に当たる行為がもう学生時代に行われた後であり、「深紅の薔薇」ミァハの死亡が「砂糖菓子」であろうトァンによる殺害になっている。これを、二人が「深紅の薔薇と砂糖菓子」の関係から解放された表現だと評価し、「百合っぽく」思われる陳腐な展開から抜け出したと言うことはできるだろうか。そう主張するよりは、トァンの意識が完全たるハーモニックスに入る事で世の中に溶けて消えてしまうという展開からして、「同性愛心中」を再びトレースしている、と見るのが妥当であろう。「百合」をテーマにしている、と言うにはあまりにも「百合っぽい」結末になっている。「成熟が不可能なテクノロジー」がテーマであり、「社会状況が先鋭化した針先に、感情調整などのテクノロジーが表象として現出している」といった戦略(http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml)でそれを批判した事を考慮しても、だ。

『ハーモニー』は確かに世界を巨大なミッションスクールとして作り出し、ディストピアとして描く事でこれを批判しているし、そのような世界ができるようにした、今の傾向と技術の延長にある仮構のテクノロジーを描いている。だが、その「慈母」が「何故か」女性の姿をしていることに対する認識は薄い。「乙女の頬に覆われた軍隊」「どこの生府の医療軍もピンク色なの、と思ったあなた、その通り」という描写には、その「母性」に対するうんざりした感情が見られるが、何故それが「乙女の頬」として現れているのかについては特に説明していない。公共的なリソースとして個人の身体が管理されているのであれば、その世界で(再生産が出来ない)同性愛者に対する扱いも変わると思われるが、それについても特に言及していない。この作品ではナチスの色んな傾向を言及していながら、そういったジェンダーポリティックスについては触っていないのだ。他の側面からは批評をしない、と言っておいたが、この点に関してはある要素をエキストラポレーションしてたらどうなるか、というSF的想像力としても盲点に入るものだと言わざるを得ない。

Conclusion ~痕跡器官を追った刑事からの伝言~

この記事は、読者が百合の性質への理解を深める事を目的として書いた。が、その性質たるものはいつも一貫している訳ではない。現在の百合においては、「深紅の薔薇と砂糖菓子」が迎える悲劇的な結末という要素は、すでに過去のものになりつつある。また、『ハーモニー』と『読書クラブ』はいずれも2000年代の終盤に書かれ作品であり、すでに10年前の、過去の作品であるのかもしれない。

例えば、漫画作品『私の百合はお仕事です!』では、そのタイトル通り、「百合」を演じる事が売りであるコンセプトカフェを舞台としている。この漫画も明らかに「百合のパロディ」であるが、ビジネス百合という商法そのものがパロディの対象に入っている事が目新しい。そして、3巻からの重要なカフェイベントとして、架空の学生代表「ブルーメ」を選抜する人気投票が登場している。『読書クラブ』の「烏丸紅子恋愛事件」とも似ている流れだが、ここでは「お客さん」と「演者」ともにこの人気投票はコンセプトカフェで行われる虚構的な出来事だと認識しているのがポイントであり、そのイメージが現実で例えるなら女学校というよりはアイドルに近く、今でも変化し続けている百合の例になっている。

だが、この作品さえも「演じる」こと、つまりは藤本由香里が共通要素として挙げていた「演劇」を通じてそのパロディを行っていることを考えれば、大胆な結論にたどり着くことも出来る。すくなくとも1970年代の少女マンガ時代から、百合は「演劇」という要素で恋愛ものをパロディしていないか。『ロミオとジュリエット』のような内容を敢えて女性同士で行う、という事が、恋愛を社会的な役割遂行(ロールプレイ)として相対化し愛の実像を暴いているのではないか。まだ着想であり仮設に過ぎないが、この大胆な結論が正しければ、パロディこそが百合ものの表現のコアにあり、それが百合を進化・変化する原動力として働いた事になる。そうすると、最初に置いた「厳密には百合ではない」という前提を否定し、これらの作品こそが正当なる百合の精神を受け継いだ、と見るべきかもしれない。この問題を立証しようとすると、演劇を利用した作品群の検討だけではなく、エス文化ー宝塚歌劇団ー百合と言った文化的なネットワークにまで手を出す必要があるので、後の研究テーマとして残しておこう。

ともあれ、百合は今、その勢力を拡大している段階にあり、その表現がマンネリ化したとは言えない。百合の歴史は長いが、まだまだ可能性が豊富なジャンルであり、成長・変化し続けているのであろう。その中にあっては、この記事はどう位置付けるかがあやふやなものだ。読者たちにとっては、この記事がその意義をもう持たない、人間にとっての尾骨と同じく痕跡器官の類であるかも知れない。反省点は色々あるが(例えば、エス文化と百合の関係及びそれによる作品批評などが無かった点、レファレンスが限られていた点などなど)、私としてはそこが一番気がかりである。

だが、歴史性を強調したこの記事の事を考えれば、その10年前の出来事を記憶して前に進むための資料として使っても良いのであろう。そうする事で、百合マニアである読者がもっと百合を楽しむ事が出来るとしたら、嬉しい限りだ。

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Ashihara NepuYona
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Written by Ashihara NepuYona

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