何かを書く理由に対して
「……日記を書いたり手紙を書いたり、そういうことに拘る人々は大抵の場合、外部世界から自己欲望の実現に失敗する傾向が多い点がそれです。そして、日記を書く行為がより消極的で内向的なことに対して、手紙を書く人はもっと積極的で外交的だという差があるとしても、どっちらも外部世界に対する共通の恨みを持つことによって、その外部世界がむしろ自分の考えや主張を受け入れることを渇望するだけではなく果ては風俗や秩序までも自分の方法に書き換えることを望む内密な欲望を持つようになるという点です。現実の秩序では自分の方が屈服し失敗するしかないからこそ、今度はその世界の方がむしろ自分に屈して追うように、その世界自体を全部自分の方法で書き換える新たな秩序を夢見ることは始めます。もっと文学的な表現を借りて言えば、自分の生に根拠を用意しようとするある種の復讐心です。そして、その日記書きや手紙のやり取りが好きな人々とは、結局はこの現実秩序の中ではとっても受けられない自己敗北を経験したり、すくなくとも頻繁に敗北し易い心持の、復讐心の多い内向的な性格の所有者たちというのが、今まで語った自分の物語の趣旨です。
すると、今度からはまた、その現実の秩序に敗北しそれに復讐を夢見る人々とものを書く人々の間にどのような関わりがあるのか触ってみましょう。
彼らは勿論、復讐心の衝動によって彼の世界に対する復讐の遂行をやりたい気持ちになります。そうすることで、彼らは自分をその復讐心から解放させようとします。だが、彼が彼の世界にチアして復讐を遂行し、そうすることで自分の復讐心から自分の生を解放する道は、その世界の側から自分の秩序を受け入れるようにする方法の他にはあるまいと分かっています。だから彼はないよりも自分の新たな秩序を探そうとします。新しく完璧な秩序を探そうとします。例えば、その自分と世界の秩序に対する覚醒と開眼が行われる、ということです。
だが彼には能力が足りません。彼の新たな秩序のためには広い情報が必要となります。だから彼は読書をします。彼がそれまで夢見て主張してきたものを、他の人の精神秩序を通じて再検討し修正される機会が必要となります。また、新たな秩序に対する暗示と手がかりを求めることになります。より堂々な復讐するためにはより善なる、より儀を重んじる、より力強い新たな秩序が用意されるべきです。彼はそれらを読書を通じて得ます。少しずつ少しずづ、彼は自分の秩序を構築していきます。そして、それをやがて文章として書き始めようとします。復讐心の理念化を通じて自分の生を現実から解放させたくなります……」
――李清俊、「支配と解放」から
「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度である事への抗議からだと思います」
――北村薫、「空飛ぶ馬」のあとがきから
私が何かを書く理由は、今まで読んできたすべての文字が私に対して書けと囁くからだ。それが何かなのは、あまりにも小さな囁きだから良く分からない。だが、絶えずに書けと囁き、私の手を操り、また自分らを運ぶ新たな文章という船を作り出す。
――これは私の言葉。上の言葉たちが織り上げた言葉。