弱くて、愚かで、半人前だとしても

—「ハレークイン」The Animated Series&「 マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝」TVa

皆さんは「ブレーメンの音楽隊」を知っているだろうか。そうそう、伝説に残ったあのロックバンドのことだ。その彼らでさえも、みな一度は世界から捨てられた身だった。ブラック企業で働きうつ病になってしまったロバ(ドラム担当)、正義感を振り回し政治に突っ込んだのは良いもののかませ犬として利用され捨てられた犬(ベース担当)、淫欲でスキャンダルばかりの猫(ギター担当)、麻薬中毒になって朝起きると苦しみを叫ぶ鶏(ボーカル担当)。その4匹が集まって、人間が動物を支配していた世界に革命を宣布する名曲「動物農場」を残したのだ。その曲に感銘を受けたイギリスの作家、ジョージ・オーウェルが同名の小説を書いたことは言うまでもないだろう。

こう語ってしまうぐらい、私は「ブレーメンの音楽隊」という物語が幼いころから大好きだった。彼らは別に猛獣ではない。野生に生まれ、自分で食料を確保することに慣れている訳でもない。彼らはもう必要価値がなくなり、世界から排除された、弱者たちだ。でも、(多くの動物民譚とは違って)彼らは人間になる方法を探すわけではない。言い換えれば、主流社会への復帰を望むわけではない。そうではなく、弱いもの同士、力を合わせて、自分たちの居場所を作り上げたのだ。そう、彼らは単に居場所を「見つけた」のではない。人でさえ怯えるはずの山賊たちに立ち向かって、「欺瞞」という弱者の戦略を使いこなし、居場所を作り上げたのだ。その方法が卑怯だという者もいるだろう。だが、弱者にフェアプレーを要求するのが、本当に「正義」なのだろうか。

ああ、聞こえる、聞こえるのだ。

「一体なんのことだ。ブレーメンの音楽隊とタイトルの2作品には何の関係があるんだ。そもそもブレーメンの音楽隊がロックバンドな訳がないだろう。百合愛好会の会報にこんなものを載せて良いのか?」

その声には、ちゃんとした答えを用意している。構造主義にならっていうと、その2作品と私の素晴らしい再解釈は、民潭の分類体系=アールネ・トンプソンのタイプ・インデックスに載っている130番類型に当たるものだ。勿論、「マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝」のTVアニメ版(以下、マギレコTVa)と「ハーレイ・クイン」The Animated Series(以下、HQ・TAS)は「動物」が出てくる訳ではないが、まともでノーマルな「一人前」の「人間」ではなく、そうした待遇が期待できない「半人前」が出てくるという意味では、これは「動物」と似たような境遇だろう。

だから、「ブレーメンの音楽隊」が大好きな私がこれらの作品を好きになるのは当然で、語りたがる厄介オタクになるのも仕方がない。ただ、類型が同じだとしても、変奏によって語ることのできるメッセージは違ってくる。さらに、日本で作られたマギレコTVaと、アメリカで作られたHQ・TASには、それぞれ文化的な差異も含まれているだろう。そして、それらが何故「百合」のジャンルで現れたのかに対する推測も入れ、一本の記事として読者の方々に伝えるつもりだ。

ただ、そのためにはネタバレを避けることが難しい。HQ・TASはHBO Max独占配信で日本ではまだ入手が困難であり、私自身もアメリカ版BDの英語音声・英語字幕で見た訳で、「いつか日本語配信が来たら、その時見る」と思っている方もいるだろう。そのため、HQ・TASについては本格的に入る前に明確なネタバレ警告を付けておくことにする。ものを自分自身で見ることを好む読者は、そのパートを飛ばして、マギレコTVaの話から読むことをお勧めする。

HQ・TAS;這い上がれ、スーパーヴィランたちよ!

「ハーレイ・クイン」という名前は、実写映画の公開などで今や日本でも有名だろう。バットマンの宿敵「ジョーカー」の彼女であり、助手(サイドキック)の役割を果たしているキャラクターである。彼女が最初に登場したのは1990年代に制作されたバットマンThe Animated Seriesからであり、日本でいう地上波で放送されたアニメだったため(エピソードによって違うが)やや軽くコミカルなタッチで描かれがちである。彼女はもともとアーカム病棟に配属された実力のある精神科医だったが、ジョーカーに近づき過ぎて彼を愛してしまい、自分も狂気の犯罪者になってしまった。ここで扱うHQ・TASは2020年に1期が、2021年に2期が放送されたアニメである。HBO Maxの独占配信は、ハーレイ・クインの実写映画版と時期が重なるため、基本的な状況設定において共通している部分はあるが、どちらかと言えば上記のHQ・TASを成人版として作り直した感じに近い。

簡単なあらすじをまず紹介しよう。ジョーカーの恋人であるハーレイ・クインは今までジョーカー組のブレインとして活躍していたが、ある事件を経てジョーカーが自分を捨て駒としか見ていないことに気づいてしまう。そこで、彼女は友人のポイズン・アイビーのアドバイスを受けて、ジョーカーとの決別を宣言するのだが、今度は逆に「あいつに私がどれだけ偉いか目にモノ見せてやる」と考え始め、犯罪組織の連合である「リージョン・オブ・ドゥーム」に認められその会員になることを目指す。そのために、ハーレイ・クインはイチから自分の組織を作り上げる必要があるのだが、これが中々ハードな条件だった。まず、すでに他のスーパーヴィランが作った組織に所属しているのは困る。ジョーカーとの仲が悪くなっているため、彼を恐れてハーレイ・クインを避ける場合もある。それらの条件をクリアしても、人気のあるやつがそんな小さいチームに入りたがることはない。ゆえに、ハーレイクインは「誰にも必要されないどん底の奴ら」を集めようとする、という話だ。

ハーレイ・クインの周りに集まった奴らはどうもポンコツである。ポイズン・アイビーは実力はあるが「医者だったころのハーレイ・クインのおかげで人間と話すときにやっと吐き気がしなくなった」程度には人間嫌いであり、「環境運動家」を自称するだけあってなかなか協力してくれない。彼女が初めて見つけた仲間はドクター・サイコだが、彼はかなりの女性嫌悪でワンダーウーマンと戦う途中「このくそま〇こが!」と言ってしまいリージョン・オブ・ドゥームの名誉を失墜させたと脱退させられた人物だ。クレイフェイスは体が泥になっていて、姿を自在に変えることができる凄い超能力者だが、それを利用し素晴らしい演技をすることにしか関心がなく、単に気を引くために選んだ配達員の変装にとんでもなく長い設定を付けて演じたりする厄介者である。キング・シャークはその乱暴なサメの姿とは違って、スマートなハッカーとしての活動を志望しているので、他のグループではあまり呼ばれていない。

ここまでの流れを見ると、「犯罪組織の連合」とか「その会員になる」といったように、犯罪組織の間に妙な秩序が存在していることが分かるだろう。このアニメにおいてスーパーヴィランの活動というのは、銀行を狙うとか、テロを起こすとか、もちろん悪い事ではあるのだが、バラエティ番組で普通に犯罪者を呼んでインタビューをしたり、スーパーヴィランになるための自己開発セミナーが行われたりというように、実際にはセレブな芸能活動としても捉えられているのだ。リージョン・オブ・ドゥームの初登場シーンもこれがまた傑作で、スーパーマンの宿敵であるレックス・ルーサーが「伝統あるわが組織に加入すると、犯罪活動のための万全の用意が出来るようにサポートすることを約束します!」という企業宣伝映像が流れるのだ。それだけではない。シニカルなポイズン・アイビーは「あんなもんはクソ男たちのたまり場で、あそこに入らなくても立派なスーパーヴィランになることはできる」というような話をしていて、実際にハーレイ・クインが女のスーパーヴィランだから組織員があまり集まらない場面が登場するなど、ブラックユーモア度が結構高い。

そう。この作品の魅力は、皆、ウツワがスーパー小さいというところだ。せこくて、せっかちで暴力的で、そのうえ負けず嫌いでわざわざ大事を起こしてしまうのは、ハーレイ・クインだけに限らない。かの有名なジョーカーは「彼女から振られたのではない、俺が振ったんだよ!」と仲間ヴィランたちに激怒し、彼女の親友ポイズン・アイビーは「自分がやってるのは犯罪活動じゃなくて過激な環境運動」と言い張り、ゴッサム警察署長であるゴードンは仕事があまりにも忙しく、もう友達と呼べる存在はバットマンしかない。バットマンは相対的に常識人ではあるが、例外というわけではなく、自分の息子であるデミアン・ウェインの扱いに困っている。

ここにおいて、スーパーヴィランという設定は、彼女たちがやっているのはそこまで「正しいもの」や「キラキラするもの」ではない、ということを強調するためのものに変わっている。ハーレイ・クインとその仲間は政治的に正しくない偏見も言うし、暴力的なことも好きだし、金と名声も欲しいわけだ。にも関わらず、このポンコツたちを応援したくなるのがこのアニメーションである。だって、久しぶりに実家に帰ったときにお母さんから「スーパーヴィランとしてそこそこ成功したって?ママも嬉しいよ。でもね、もうそんなヴィランなんちゃらの活動は週末だけにして、ちゃんとした職業、精神科医をまたやって欲しいな」と言われて、今の職場をやめたいと思う人間なんて何処にもいないだろう。セックスやゴア表現のような18禁の表現がなされているから成人向けという訳ではなく、「大人」だけが共感できる成人の世界にこの作品は踏み込んでいる。完璧でもなく、簡単でもなく、悩ましいスーパースモールウツワの世界に、だ。

主人公であるハーレイ・クインが犯すミスは多い。名声を欲して、危ない仕事に巻き込まれたり、ジョーカーの甘い言葉に騙されてまた付き合おうとしたり、グループのリーダーでありながらも、カッとなった時は仲間たちのことを忘れてしまうのだ。

おお、またその声が聞こえる。

「まぁまぁ、面白そうだ。でも、これが百合となんの関係があるんだ?」

そう。それを説明する段階が来た。まず1期においてポイズン・アイビーは、ハーレイ・クインが犯す数々のミスにも関わらず、彼女と親しくしている。彼女の治療のおかげで、人間を信じて良いと考えるようになったのだ。しかし見ての通り、当のハーレイ・クインは不安定極まりない。物語の後半では、ハーレイ・クインがジョーカーの甘い言葉に騙され、アイビーを危ない目に遭わせてしまい、それをなんとか挽回しようとする。ちなみに、バットマンTASのころは「ジョーカーが親父に虐待された話(嘘)を聞いて、ハーレイ・クインから同情心を買ったのが恋の始まりだった」という設定になっているが、この作品ではその事情がジョーカーの完全創作ではなく、ポイズン・アイビーの幼年期にあった出来事を少しだけすり替えたものになっている。

「へぇ、それだけ?」

と言う、あなた。ここからはHQ・TAS2期に対するネタバレの洪水になる。真実を知りたいと思うならば以下の段落に進み、ネタバレを避けたいと思うのであればマギレコの章に飛んだ方が良いだろう。

いいか?3、2、1 — -

2期で、ハーレイ・クインとポイズン・アイビーはある罠から脱出した後に、喜びに満ちたキスを交わす。しかし、それは当事者たちにとっては期待していなかったことで、二人はそれがなかったかのように振る舞うことを選ぶ。特に、カイトマンという(スーパーな能力もなくあっけないけど、何処か嫌われない、口癖が「上等だ(Hell Yeah!)」である)ヴィランから求愛されていたポイズン・アイビーは、彼との結婚を早く進めることを選ぶ。だが、その結婚前に女友達だけで行った「処女旅行」で酔っ払いになった二人は、勢いでそのままセックスをしてしまう。それも二日連続で。それでもなお、彼女たちは自分たちの関係を壊したくないと考え、アイビーはハーレイ・クインの組織から距離を置き、ハーレイ・クインはハーレイ・クインで「私はなんでも突発的にやっちゃう人間!だからあの夜も突発的なことだったし!」みたいなノリで闇の世界の主人、その名も恐ろしいダークサイドと契約を交わし、ゴッサム警察との戦争を始める。

この作品では、レズビアンだからという理由で周りから嫌がられる描写はされていない。ドクターサイコは嫌がるが、すでに書いたように、あいつは元々すげぇー女性嫌悪者だ。それでも、彼女たちはお互いに気持ちを認めて伝えることを恐れている。本音を隠すたびに、そして自分が平気であることを強調するたびに、状況は悪化する。彼女はただの犯罪者ではなくスーパー(スモールウツワ)ヴィランなので、文字通り自分の世界を滅亡に向かわせてしまうのだ。それに、闇の世界の主人と交わした契約で得た力も、女がリーダーであるということやチーム内で自分の貢献が十分に認められていないということに不満を持ったドクターサイコによって乗っ取られ、ポイズン・アイビーが操られてしまう羽目になる。

それからどうなったのかというと、これがまた面白い。色々あってポイズン・アイビーを救った彼女たちだったが、ドクターサイコの超能力のせいで、全世界の人々に彼女たちがセックスをしていたことが分かってしまう。それでもどうにかして「アイビーが幸せになって欲しい」と思うハーレイ・クインと、「もう忘れて普通に戻りたい」と思うポイズン・アイビーは、そのままカイトマンとの結婚式を進める。だが、その結婚式もゴッサム警察から目を付けられて結局めちゃくちゃになる。ハーレイ・クイン、ポイズン・アイビー、カイトマンの三人で警察から逃亡している間に、「インターネットの通信講座で牧師資格証を取っているので、今でも二人が永遠の愛を誓えば、自分がその証人になれる」というハーレイ・クインに、カイトマンはこう言う。

「絶対いやだ(Hell, No)」

と。彼は言う。これが何度目の別れで何度目の再会なのか。もううんざりであり、愛の誓いなんて無駄だと。何故ならば、彼は彼女の心がどこにあるのか知っているから。彼はこう自分の気持ちを伝える。

「俺は結婚したいよ、でもあんたがしたくないだろう!(中略)本当に認めたくなかったけど、あんたが認めようとしてないから、俺がやってやる。俺はあんたのための人間ではない。アイビー、あんたが言っていたように俺には最高の人が相応しい」

その後、彼は自分のカイトでその場所から飛び去ってしまう。そして、ウェディングドレスを着たポイズン・アイビーと花嫁の付き添いの服装をしていたハーレイ・クインは、警察から逃げるために新婚のための車に乗って、テルマ&ルイーズをパロディーしたような、すごいカースタントをしながら愛のキスを交わしてこの作品は終わる。

これはすごく「大人」の恋愛だと、私は思った。どう見てもそれは成熟した、清く正しい恋愛ではない。だけども、実際の大人の恋愛はそんなものであろう。お互いにミスを犯し、お互いに嘘を吐いてしまい、それでもなお問題から目を背けずに、混沌の中で愛を確認する。時には、愛した者のために譲ることもある。ここでもう一度言いたいのは、彼女らは「ブレーメンの音楽隊」に出てくる、動物のような「半人前」であるということだ。

ここで「半人前」というのは、「一人前の人間」として捉えるには物足りない、という意味である。彼女たちはすでに書いたように、欲望のままに動いたり、ミスも多く犯している。だが同時に、彼女たちはやはり、権力の内側にいる存在ではなく、弱者であるということだ。自立能力がないというほどではないが、やはり彼女たちはリージョン・オブ・ドゥームで偉そうな顔をしていて、多数の部下を揃いているスーパーヴィランたちとは立場が違う。そこに「女性だから」という要素もあるというのは、すでに書いた通りである。この作品では、それなりに「やさしい」処理をしたとは思うが、同性愛者として全世界に強制的にカミングアウトされては辛いだろう。それでもなお、混沌の中で進む姿は、居場所を探し出したブレーメンの音楽隊を思い出させる。音楽隊の歌声が笑えるほどめちゃくちゃなのも、この作品が深刻な時でも笑いを忘れないところに似ている。

明らかにテルマ&ルイーズのパロディーだとは書いていたが、この場面を見て私に思い浮かんだイメージは、やはり「劇場版 少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」だった。少女革命ウテナと比較すると、彼女たちがスーパーヴィランとスーパーヒーローの世界に劇的な変化を起こしているわけではない。そもそも、彼女たち自身もがらりと変わったわけではない。最後にキスを交わす前にポイズン・アイビーはハーレイ・クインにこう言う。

「やはり君は君のままで、何度もめちゃくちゃなことをすると思うよ。でもね、成長しようとしているし、実際してる。私にはそれが大事だよ」

こうやって、彼女たちは他人と自分が引いた限界線を破り、次の段階に前進する。不安定で完璧じゃなくても、笑い飛ばせる。

マギレコTVa;生き残れ、魔法少女たちよ。

アニメをよく見る人の中で、「魔法少女まどか☆マギカ」を知らない人はほぼいないだろうと思われる。だが、その外伝にあたるマギレコに関しては、原作ソシャゲの方もマギレコTVaの方も知らないという人はいるだろう。また、マギレコTVaの1期はちょっとだけ見たが、やはり見なくなった、という人もいるだろう。

こう書いている自分も、TVaの1期は物語の軸になる三つの要素 — — 妹の失踪、縄張り問題、噂という現象が上手く溶け込んでおらず、散漫な展開になってしまっていて失望した。だが、3期まで見終わった今ならば、それでも最後まで見てよかったと思えるので、もし1期でやめたという方は、2期や3期も見続けて欲しい。

上述したように、序盤の展開に散漫なところがあるため、HQ・TASのような簡単なあらすじを書くことは、この作品を理解するのに役立たないと思う。どちらかというと、「魔法少女まどか☆マギカ」という原作の世界をこの外伝がどのように解釈し拡張したのかを語る方が早いだろう。

「魔法少女まどか☆マギカ」でも、魔法少女同士による縄張り問題の存在について言及されている。魔女と戦う魔法少女には魂そのものであるソウルジェムがあり、力を使ったり、戦ったり、悩みがあったりすると、ソウルジェムに穢れが蓄積する。この穢れを浄化するためには、魔女を倒してから得るグリーフシードが必要である。主人公たちが住んでいる見滝原市においては、そこまで直接的な縄張り描写がされてないが、魔女という限られた資源をめぐって、どのような闘争が起こるのかは容易に想像が出来る。

ソシャゲとして登場人物を多く用意することが必要であるという条件も働いたのだろうか、マギレコが物語の中心としている神浜市は、何故か魔法少女が増えすぎたという設定になっている。自分たちの安全を目指す魔法少女たちは協力もするが、グリーフシードの獲得のために衝突する場合も発生する。組織とその縄張りといった概念が、自然発生的に、強く発展している。

新しく街に現れた主人公「環いろは」を警戒する魔法少女も多い。いろはがいろんな「組」に事情を聴いて、失踪した妹を探し回っていることから、逆に言えば、「組」の論理に縛られている人間にあまり自由はないのだろうと想像できる。そういう言葉の使い方をしていないだけで、「てめぇ、誰の許可をもらってここで商売しているんだぁ」の世界なのだ。

ここで登場するのが、あやしいカルト教団「マギウスの翼」である。「魔法少女の救済」を目的としているこの教団では、ソウルジェムに穢れが蓄積されなくても発揮できる謎の力「ドッペルゲンガー」を提供することで信者を集めている。それが、神浜市に魔法少女が急増している理由でもある。他の都市からも、あらゆる魔法少女が救いのためにここに来て入団しているのだ。これも怪しい教団が、組織員を倒さずに戦える新種の薬を配っていることと同じだ。

脚本家の虚淵玄は、本編の「魔法少女まどか☆マギカ」に対して、ヤクザもののようなプロットラインだと言っていた。マギレコTVaはその強化版だと言えるだろう。HQ・TASの方がスーパーヴィランの世界をセレブの世界に書き換えたとすれば、マギレコTVaは魔法少女の世界をヤクザの世界に書き換えた訳だ。

マギレコTASとHQ・TASが平行しているところは、(これは作中でも何度も強調される点だが)彼女たちは弱者であることだ。もともと、魔法少女たちの中で成年まで生き残った者は少ない。もう一人の主人公である「七海やちよ」は大学生として登場するが、仲間たちを犠牲にして生き残ったというサバイバーギルティーを持っている。なので、文字通り彼女たちはまだまだ少女であって、一回の願いの代償として終わらない戦いを背負わされるのは厳しいことである。魔法少女の存在を知らない周りに助けを求めることも、理解を得ることもほぼないのだろう。だが、「救済される」と信じて神浜市にたどり着いた魔法少女たちは、他の魔法少女たちよりも、はるかにもろく弱く不安定な者ばかりだ。

TVaのオリジナルキャラクターとして登場した黒江は、マギウスの翼に寄り添うしかない者の典型として描写されている。3期の回想では、自分の縄張りに迷い込んだ新人の魔法少女が「余るグリーフシードをもらいたい」と切迫な態度で頼むが、グリーフシードを持っていたのにも関わらず断った過去が明かされる。その少女とは二度と会えなかったが、黒江はそのことをずっと引きずっていて、罪悪感を持っていた。彼女は自分がどんな人なのかちゃんと知っていて、自分ではなく他人の力を借りて救済されたいと思っているのだろう。冷静に言えば、彼女はウツワが小さく、弱くて愚か者だ。

主人公である環いろはは救済に興味があって来たわけではないが、事情は似たようなものである。そのポテンシャルだけでもキュウべぇに注目された(本編の)主人公鹿目まどかとは違い、主人公である環いろは「そこそこ」程度の実力しか持っていないように描写されている。精神的な面においても、2期では「ドッペルゲンガー」に飲まれ、幻の中で妹がぬいぐるみの人形にすり替えられたりする、弱い者である。

だけども、彼女たちはまだまだ子供だ。

HQ・TASで言っていた弱者という立場は構造的なものであり、相対的なものであった。ハーレイ・クインは作中の描写によると貧しい家で育ったし、体操選手としての才能を義父に搾取されてはいたが、体操選手になるほどの身体能力も持っており精神科医になるほど頭が良かった。だが、それらを活かして自分でスーパーヴィランの道を選んだ。ポイズン・アイビーは色々な問題を抱えているが、環境保護という(間違った)強い信念のもとで成果を上げている人間である。なにより、ここで登場する人物はバットマンの息子デミアン・ウェイン以外全員、年齢から見ても、活動から見ても「大人」なのだ。

でも、はぐれものや弱者というのが、大人の間だけで発生する訳ではない。我々の社会は基本的にはそういった子供にセーフネットを提供しようとはしているが、それが十分であり万全だと思う人はいないだろう。性別、家庭環境、障害、性的指向などの要因で苦しんでいる子供もたくさんいて、「普通な」環境の中で育っても、精神や体が絶対的に弱い子供は沢山いる。ただ、そういった子供たちも生き残るために毎日を過ごしているという話だ。

マギレコTVaで扱われているのは、そういった弱者たちの生存記である。登場する人物の多くは利己的な、もしくはずるい選択をする。嘘をつく、逃げる、裏切る…。けれど、それがその時によって一番の選択だった、生き残るための戦略だった場合もある。

黒江がグリーフシードを見知らぬ少女に与えたとして、次の日に安定的にグリーフシードを得られるだろうという保証はどこにもないのだ。マギレコTVaは、それが正しいとまでは言わないが、正しさでは生き残れず、正しさによって殺される人――それも子供がいることを描いている。

その上で、マギレコTVaは、その弱者たちがお互いの生存を願い、そのために手を取り合う過程を描こうとしている。マギウスの翼が設立された本当の目的は「魔法少女の救済」ではなかったが、設立者の一人である里見灯花は集まった他の少女たちの辛さを、願望を、見過ごすことは出来なかった。ひどく間違いのある方法ではあったが、マギウスの翼は本当に「魔法少女」として生きるすべてのものを救済しようと動いていた。

主人公である環いろはも同じだ。妹の友達であり、マギウスの翼の設立者に当たる二人 — — 里見灯花と柊ねむが自分たちを含めたさまざまな人々を犠牲にして、魔法少女たちを救済しようとする試みに反対する。彼女の選択は長期的に見れば愚かなのかもしれないし、彼女自身もそれを知っている。だが、その理由はとてもシンプルなものだった。「だから一緒にいてよ。一秒でも長く一緒にいてよ」と、彼女は言った。環いろはは、隣にいる者の生存を願っていたのだ。

いろはは、黒江に対してもそうだった。環いろはと彼女は知り合いではあるが、同じ「組」という訳でもなく、2期の時点では仲間とは呼べない存在である。けれども、環いろはは彼女に手を伸ばしどうにか彼女を助けようとしていた。勿論、彼女がそもそも神浜市に来た理由である妹が「友達に手を伸ばしてくれ」と頼んだから、というのもあるだろう。だが、それは、一体全体どういうことなのだろう。次に出会う人を助けてあげて、という願いは、どのような意味なんだろう。利己的で愚かでも、同じ魔法少女同士に、同じ弱者同士に、助け合うことが出来るという希望を込めた願いではなかろうか。

だが、環いろはは黒江を救えなかった。

環いろはは多くのものを失った。最初の目的であった妹も、妹の友達も、妹から頼まれた黒江も、助けなかった。災難は止めたものの、多くの人々の犠牲を止めることは出来無かった。「魔法少女まどか☆マギカ」本編の終止符であるワルプルギスの夜は倒されたようだが、見滝原市の多くを破壊してしまった(ほむらがワープしたことで、まどかも命をなくしたのだろう)。これは、ソシャゲである原作「マギレコ」とは違う結末である。この脚色もあって3期の感想の中には、結局何もかも失ってすっきりしなかったという意見も見られる。アンチ・クライマックスであることは間違いないだろう。

私は、それこそがすごく良い脚色だと思った。

だって、環いろはは弱い者だから。鹿目まどかとは違って、皆を助けることは出来ないのだから。でも、それは手を差し伸べない理由にはならない。むしろ、そうだったからこそ、彼女は手を伸ばそうとした。お互いに手を握らないと、弱い者が生存する可能性はもっと低くなる。全部救うことは出来なくても、一人でも大切な人が消えなくなるために手を伸ばすべきだと、その弱さのおかげで環いろはは知ったのだ。自分のその弱さを認め、自分を絞り上げて来た「ドッペルゲンガー」の髪を皆に差し伸べる手の形に変えて、皆から助けをもらい皆を助けようとする。私にはそれが本当の魔法のように見えた。この記事ではあまり視覚的な表現に対して言及していないが、そういった弱者たちの連帯が可能だと信じて、それを魔法少女という形式を取って表現したシーンだった。

弊会では百合の定義を「女性どうしの特別な関係」だと見ている。マギレコTVaの場合は「女の子どうし」という表現が正しいだろうが、私はそれがこの弱者たちの連帯からでも見られるのだと思う。女性であることは、まだまだ我々の世界では疎外され差別される立場である。子供であればなおさらだろう。その中で交わす感情というのは、「恋愛」だけに留まる理由はないだろう。完璧でなくても、歪んでいても、ウツワがスーパー小さくても、皆を救うことは出来なくとも、弱くて、愚かで、半人前でも — — お互いを信じて、手を握り合うことは出来る。お互いを愛し合い、生き残って前に進むことが出来る。

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Ashihara NepuYona
Ashihara NepuYona

Written by Ashihara NepuYona

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